私が見たイメージ
前回の続きです。(前回のブログはこちら→真実を垣間見た一瞥体験!?~夫が亡くなった日①)
私の意識がベロ~~~~~~ンと剥がれた時に見たイメージと言うのがこんな感じ↓
この映像の意味が後になって分かったけれど、この時はただ「??????」という状態だった。
この映像の意味するところは、この肉体や思考という個別の自分という存在は実は本当の自分じゃないんだよ、という意味だなと感じ取った。
私たちは実はシールの台紙だった
この意味不明な図は分かりやすく説明するとシールみたいな感じ。一枚の大きなシールに人間の形に切り取られたシールがある。そしてその人間の形のシールの部分というのが肉体や思考の「私」で、その私というシールが剥がれたようなまさにそんなイメージだった。
そしてその剥がれたシールの台紙の部分にはキラキラ光る真っ暗闇に浮かぶ水面が見えた。そして同時にその水面の部分が自分になっていた。
その自分というのは完全なる「無」であって何にも無い。完全な静寂で苦しみも何にもなくて、この人なんでこんなに騒いでるんだろう?というような感覚で剥がれ落ちた自分を認識しているようなそんな感じだった。
これがなぜ水面としてイメージが出て来たのかというと、水面がまさに無とか静寂を良く表しているだからなんだと思う。
そして、これはなぜシールと言っているのかと言うと、この時の無の自分というのは、この剥がれ落ちた自分の形にくりぬかれた部分だけではなく、このシールの台紙全部だったからなんだ。
何か個別の人間でもないし、物体でもない、ほんとうに何にもない無の状態。何にもないのにそれが自分なんだ。まさに物語の全てを生み出すスクリーンそのもののようなそんな感じ。生まれることも死ぬこともない存在だよ。
このシールの台紙の上に貼られている様々な形にくり抜かれた部分のシールが実は私たちそれぞれの「私」と認識している「自我」なんだ。
だけど実際の私たちの本体はこの貼られているシールじゃなくて、台紙の方。
そして、極端な感情の動きがあったことでこの時私の自我が緩んでしまったんだと思う。そしてベロ~~~~~ン!と剥がれて本体が見えちゃった!!みたいなそんな感じがした。
そして同時に、仕掛けがばれちゃったみたいなどこかそんな感じもするイメージだった。
シールと台紙がピッタリくっついてるから苦しい
ということはね、通常私たちはシールと台紙が完璧にぴったりとくっついてしまっているから自分の肉体や思考が自分そのものなんだと信じて疑わない状態になっているんだよね。
肉体や思考が自分そのものだと信じて疑わないということは、自分も他の人たちも肉体が死んだら終わりだし、肉体が死んだら死者とのつながりもないと感じてしまう。
そして思考がストーリーを作り出すので苦しみが沢山生まれてくるし人生が深刻そのものだと感じてしまうんだ。
だけどそのシールと台紙の間に少しでも隙間ができればこの台紙そのものの存在に気付けるようになってくるという仕組み。
ピッタリくっついてしまったら台紙があるかどうかすらわからないんだよね。
じゃぁどうやったら台紙とシールの間に隙間ができるのかというと、これが思考や感情に常に気付き続けることや、今に在り続けるということや、ネガティブな感情を手放すなど色々な方法があるよ。
思考や感情に気付き続けるという事がすごく大事だけど、これは思考や感情がまさにくり抜かれたシールの部分だから。このシールに気付いていなければ、台紙にも気付けないんだ。だからまずシールに気付けば結果的に台紙に気付ける。
もちろんいきなり台紙に気付けるならそれに越したことはないんだけどさ。
台紙との間に隙間ができてくると思考が真実じゃないというところが分かってきたり、自分の現実に起こるストーリーに対して、深刻にならなくなってくるという変化が起きて来るよ。
最後にさっきの私の話に戻るけど、シールのようにべろ~~んと私が剥がれてしまった後に「あれ????なんだこれ????全く苦しくないぞ??」という感覚になった。
でもすぐさま自我の自分が戻ってきて、「いやいや、夫が亡くなったんだ!苦しくないワケがないじゃないか!はやく自分に戻ろう」となって、台紙の方からシールに一体化しに行くような感じでまたぴったりとくっついてもとに戻ったというような感じだった。
というわけで、私も日々思考や感情に気付く事でシールを認識し続けるという事をやってますよ😊 もちろん一体化しちゃってることも沢山あるけど、でもそれもOK。