この世界は究極のごっこ遊び!?

「私」って一体なんでしょう?

肉体が私ですか?

もしそうであるなら、なぜ臨死体験をした人たちは私という意識をずっと保っていたのでしょうか。

もし肉体が私なら、肉体が死んだ状態になったら私という意識も消えるはずです。

肉体が朽ち果てても意識は永遠に続いて輪廻転生を繰り返しています。だから肉体は私ではありません。

本当の私は「空(くう)」であり、「意識」とも言えます。

「見る者」と表現する人もいます。

非二元を唱えている溝口あゆかさんは、「気付きの意識」と表現していました。これはとても分かりやすい表現だな、と思います。

ただ目の前で起こっている全て、身体の感覚、それらにただ気付いてる「意識」、それこそが本当の私です。

思考が「私」だ、と思いがちですが、思考は「私」ではありません。

本当の私はその思考に気づいている意識です。

「幸せだな」と考えた時、「自分は幸せだと今思っているな」と認識できますね。自分の思考に対して、自分は今こんなことを考えてる、と必ず認識できる意識が別に存在しています。

もし、思考が本当に「私」自身(思考=私)だとするなら、「私」はなぜ思考を認識できるのでしょうか?私という存在を認識するには、私から分離した「私以外」の存在がなければ認識できません。

あなたがもしただの光だったとします。でも光の中にいたらあなたが光だと認識できません。あなたは光の中から暗やみに行ったら初めてあなたが光だとわかります。光以外の暗やみが存在して初めて自分(光)を認識できるのです。

私が思考を認識できるということは、「思考=私」ではないということなのです。思考=私なら、私は思考を認識することはできません。

「あ、今自分は幸せだなと感じているな」と認識している意識、それが本当の私なのです。

悟りへ近づくためには思考観察をしなさいと良く言われています。思考観察をするということは、「思考に気づいてる意識=本当の自分」の視点になじむということなので、思考観察はとても重要だと思います。

思考に一体化するのではなく、あ、今自分は幸せだと思っている、頭に来ている、などと客観的に自分の思考をただ認識するというのはとても大事です。これだけで統合が起こるという人もいるくらい、有益なことです。

これを続けていると「思考(偽物の自分)」と本当の自分である「気づいてる意識」の間に少しずつ隙間が生まれてきます。そうすることでだんだん本質である「気付いてる意識」の視点から世界を見られるようになってきます。

そして、今まで自分そのものだと思っていた「思考」が自分ではないと完全に腑に落ち、そして「気付いてる意識」の方へと自分の意識がひっくり返ってその状態が維持できた時に悟りの状態となります。これを意識の「反転」と言ったりします。

「気付いてる意識」は、ただ全てが起こっていることを認識するだけです。完全に中立で、ジャッジもなく、ただあるがままに見るだけの意識です。

起こっていることに良い悪いの判断を付けるのは思考の役割です。でもその思考は私ではありません。善悪のジャッジは人間として生まれて大きくなるまでに刷り込まれた作られた概念にすぎません。刷り込まれた概念で形作られた思考が、本当の私であるはずがありません。ただの幻想です。

全てをジャッジせずに中立にあるがままに受入れる愛そのものが本当の私の姿なのです。

私達は思考の仮面を被って「私ごっこ」をしているだけです。

とうわけで、私は「未亡人ごっこしてる」、「シングルマザーごっこしてる」なんて思ったりしてますw

でも本当にそうなんですよね。ごっこ遊びなんです。

こういう視点を持つと、自分の体験全てが尊く、全てが宝石の様に輝いて見えてくることがあります。

まるで本当に自分自身に起こっているかのように臨場感をもって体験できるごっこ遊びなんて本当にすごいことですね。

皆さんは何ごっこをして遊んでいますか?