誰かを批判したくなった時~本当のスピリチュアルな生き方とは?

今ふっと昔の自分を思い出したのですが、昔はすごくドラマに入り込んでいたので、誰かに対してジャッジする気持ち、批判的な気持ちが出てきて臨場感あふれる思いであの人は何であんな風なんだろう、ということをあれこれ考えていた自分がいました。

すごく自分の中での正義みたいなものを強く持っていたので、こうあるべき、これは間違ってる、というような思いがいつもありましたし、自分も完璧じゃないにも関わらず他人をジャッジしていました。

だけど一方で、正義ってなんだろう?正しいことって何だろう?という疑問がずっとずっとありました。20代のころから善悪って何が基準なの?と思うことがよくあり、でも答えが出ませんでした。絶対的な一つの基準が見つからなかったのです。

絶対的な基準が無いので、いつしか私の中で一般的な道徳などと照らし合わせて自分の中の正義を確立して行って、その基準で周りを判断するという在り方になって行きました。でもそれが絶対なのかは100%確信があったわけではありません。

正義を振りかざしながら、これで本当に正しいのかな?という疑問はいつも消えませんでした。

でも、悟りや目覚めの探求をしていく中で、その疑問が解けて行きました。

物事は全て中立であって、そこには実は善も悪も正しいも間違いもなにも無かったのです。

しかし、物事は全て中立でしかないけれど、そうはいってもこの対比の世界の地球で自分のストーリーをこれからも生きて行かなければなりません

善悪もないし全ては中立ですと唱えいるだけでは生きて行けませんよね。泥棒が家に入って物を盗まれても「彼は悪くありません」と言っていたらおかしなことになりますね。

その時に絶対的な一つの真実は自分の感じる感覚、これだけです。これだけがこの世界のドラマを生きる指標にできる絶対的な基準だと思います。

しっくりくる自分軸にいるとき(「こひしたふわよ」の感覚)、進むべき道をしっかりと進んでいる時です。私はこれをたよりに生きて行くだけで大丈夫なんだと気づいた時にすっかり霧が晴れました。善悪はありませんが、でもこの地球で生きて行く上でそれぞれの中でしっくりくることに従って生きて行けば良いので、自分軸からこれが正しいと思うことがあるのならその方向に行けば良いというわけです。

でもいつでも究極的な高い視点から全ては中立なんだという見方を同時に持ち続けることも大切です。そうでないといつの間にかドラマにハマって眠って行きます。

そしてその時に大事なのは誰かを批判したりコントロールした時には自分軸からずれます(こひしたふわよの感覚ではないからです)ので、自分がただしっくりくるものを選択し、他人はそのままにしておけばOK(そこに批判はいらない)ということが大きなポイントです。

その時に、すごく自分が違和感を感じるなという意見があって何か自分にしっくりくる意見を表明したいと思えばまずしっかりと自分がゼロポイントの位置(こひしたふわよの感覚を感じている状態)に立ち、そこから意見をしっかり表明すると自分軸にガチっと大きくハマった感覚になって波動が上がるのが分かると思います。ゼロポイントから意見を表明するとき、相手を攻撃しようとかコントロールしようという波動が言葉に乗らないので、不思議と調和がとれるということになります。これを続けて行くと真実の自分(ほぼ神であるハイヤーセルフ)へと近づいていくはずです。

非難や批判ではなく、自分軸からしっかりと自分の意見を表明して自分軸に従って生きるということが大事であって、他人に無関心でいる、他人に手を出さないで放っておく、臭いものに蓋をするということを言っているわけではありません。自分軸からどんどん行動して行くのが一番大切です。

誰かがやってくれるだろう、と思って臭いものに蓋をしたり現実から目を背けるなら、それが具現化して行きますので、永遠と誰かがやってくれないかなと思うような納得のいかない現実を作り続けるだけです。自分軸からまずしっかりと自分が行動する、これが大切だと私は思っています。

ふわふわとただ楽しいことだけを考えて臭いものに蓋をして生きて行くのがスピリチュアルではありません。

しっかりと自分軸から自分の作り出した現実に責任をもって行動して行くのが何よりも大切だし、それこそが本当のスピリチュアルな生き方だと思います。